昭和52年06月30日 朝の御理解



 御理解 第20節
 「此方が天地金乃神よりおかげを受けておることを話にして聞かすのぞ。疑うて聞かぬ者は是非におよばず。かわいいものじゃ。また時を待っておかげを受けるがよし。めいめいに子を持って合点せよ。親の言うことを聞かぬ子が一番つまらぬ。言うことを聞かぬ子は、親もしかたがあるまいが。」

 御理解第20節「此方が天地金乃神よりおかげを受けておる事を話にして聞かすのぞ。疑うて聞かぬ者は是非におよばず。可愛い者じゃ。また時を待っておかげを受けるがよし。銘々に子を持って合点せよ。親の言う事を聞かぬ子が一番つまらぬ。言う事を聞かぬ子は、親もしかたがあるまいが。」と。天地金乃神様のお心を、教祖様がお受けになり、そして、それを伝えられる。ですから教祖様のお言葉は絶対のものだ。
 絶対のものだけに、また絶対に頂けば、絶対のおかげが約束される。という程しに絶対のものなんです。言う事を聞かん子は親でも仕方がない。だから親の言う事を聞くと言う事。ね。ですから親がね、子供に「とてもこの子には、これは無理だ」と言った様な事を言うたり、又は教えたりする筈もない。ですからもう本気で、矢張り聞く以外には無いのです。だから親の言う事を聞く子が、私は親孝行だと思うのです。もう本当に天地の親神様は、それこそまあぁ気が長いと言やぁ気が長い。
 それこそ千年も万年も待ちに待たれるというのです。ね。自然界の働きの中には一切を丸うせずにはおかんという働きがあっておる。いわゆる天地の親神様の働きの中には、それもです、千年も万年もかかってからでも、丸うせずにはおかんという働きがです、なら私共人間氏子の上にもそういう思い・願いというものがかけられておるのです。ですからその親心に接した時に、その親心が分かった時に、親の心に副わずにはおられない。親の言う事を聞かずにはおられない。
 昨日、ちょっとお話の中に申しましたように、如何に生命を懸けると言うても、ね、金光教は私にとって生命だと言うても、いや生命以上だと言う人すらもあろうけれども、その生命そのものが「お前のような生命は要らん。」と神様が仰せられたらどうするかと、秋永先生とこの奥さんが、そんな発表をしておりましたが、ね、そんなどう言う様な人が生命を懸けた時に、神様がお喜び下さるかと言う事です。
 どういう人が。ね。ですから結局は、私は神様の心にかなう私になっておらなけれならない、ね、言うなら「よぼり果てた人」がね、「もう生命を捧げます」」と言うても「そんな生命は要らん」と言われたら困った。ね。「御用に使うて下さい。」と言うても「お前が何の御用が出来るか。」と神様が「まま」になられるための、ならお給仕一つさせて頂くと言う事であっても、ね、顔はもうこう汚れとる、手には垢がこうついとるちござるとが、ね、なら神様のお給仕を、神様が許しなさるはずがない。
 やっぱり(?)こざっぱりとした格好をして、ね、きちっとしてなら神様のお給仕をさせて貰うたら、ね、神様も喜んで神様のお給仕として使うて下さるだろうと。だから秋永先生の奥さんが言う様に、やっぱり神様が、如何に「生命を懸けます」と言うても「そういう生命は要らない」と言われたら困る。なら私共がどうやったら良いかと言う事です。ね。そこで何にも出来ませんけれども。
 これと言うて別に力もございませんけれども、ね、神の言う事言うなら、親の言う事を聞く人でなからなければ使われんと言う事が分かります。神の言う事を素直に聞く人、親の言う事を素直に聞く人。これはそうですよ何か一つ物を頼むでもです、やっぱりあのう、尻がるう「ハイ」って立ち上がる人にしか、中々言いはしませんけれども、ね(笑う)尻の重かつには、もう頼みもせんでしょうが。ね、言うなら言う事を聞く人でなからなければ、ね、あぁやってものも出来ておりはせん。
 研きも出来ておりません。けれどもね、お役に立ちたい。ね。そこで何でお役に立つかと言う事は、神様が使うて言うて下さる事に一々「ハイ」「ハイ」と言うて素直に言う事を聞く人の上にしか、神様のお働きはありますまい。私は以前にあのうね、御理解の中に、椛目時代にでした「もし私に家、蔵財産が沢山ここにある。おかげを頂いておるとするなら、それはね私が神様に「ハイ」と言う、その「ハイ」の中から、この家蔵財産が出来ているんですよ」と言うてお話した事を覚えております。
 全くその通りです。ね、たまにはね言うなら「ハイ」と言えない様な事もあるけれども、そげなことば「ハイ」と言うと人が笑うと言った様な事もありますけれども、そこは昨日の御理解じゃないけれども、金光様のご信心は常識じゃなくて非常識、いやそれを私は、超常識だと言うわけです。道徳でも無い。道徳的なものじゃない。超道徳なんです。ね、ですから神様の言う事を「ハイ」「ハイ」というて言いよったら。
 もう本当に人から笑われたり、まあ場合には後ろ指指される事にもなり兼ねないのだけれども、ね、人から笑われても、神様から笑われてはならんという、まっその当時の私の信心です。ね、それ程までに言う事を聞くなら、神様もおかげ下さらない筈はないです。ね。本当に神の言う事を聞かん、もうそれこそ神様でも仕方が無い。親でも言う事を聞かん子は仕方があるまいがと。それでも尚且つもうそういう言う事を聞かん子は知らんと言うて打ち切りなさる様な事ではなくて、ね。
 もう何か親神様がそれこそ千年万年掛っても、どうかして「丸うせずにはおかん」という働きがそういう祈りが、この背中に感じられる。後ろから拝んでござる。そういうものを、私は天地金乃神様のお心の中に感ずるんです「成程親神様だな」と思うです「もう十年かかっても、二十年かかっても改まられん。もうお前のようなやつは駄目だ」と仰られずに。ね。本当に改まろうという気があって出来ない。出来ないね。それでも、「さあがんばれ」と言うて、いつもがんばれと言うて下さる神様なんです。 
 「もうお前は、いくら言うて聞かせても言う事を聞かんから」、昨日ある人が本当に私は感心しましたけど、もう本当にその人にとっては、一番好きなものを放して修行を、もう本当に神様に誓うて、まあここやんがて一月位続いております。そしたらその方がそのう「改まったからそのう神様、おかげ下さい」と言う様なものが内容にあるのでしょうね、昨日私はその方の事をお届けさして頂きよったら、小ーさいスルメとね、後ろにゃ大きな荷物ばこう、前にスルメをちょっと引っ掛けてから。
 後ろには大きな荷物を担げようとするけれども後ろが重過ぎてね、そのう言うなら担えば一荷という一荷にならないわけなんです。ね。スルメと言う事は、いわゆる改まったと言う事なんです。ちょこうっとばっかり改まった。「改まったらもうどげなおかげでん、願ったっち良かろう」と、思うてお願いをしとるというわけなんですよ。私はそれを頂いてからハアー、なるほどちょこっと改まったら、もう例えば「医者が助からん病気でも助けて下さい(笑い)。
 石垣のはぜ(?)道でも拓いて下さい。」とこう言う様なね、そのうそういうのが普通じゃなかろうかと思うです。ね。それでもまあ前の方にスルメがちょっと引っ掛っておる。そのう小まぁかスルメが(笑い)後ろの方はもうこう(?)。ね。そういうおかげを願って、なら改まるこつばかりと言うんでしょうけれどもね、そこで私は思うんですけれどもね「改まったからさあほんならこういうおかげを」と言う事ではなくて、ね。
 昨日岩部先生が信仰上の、いわばいろんな壁にぶつかっておられる訳です。もう長い親の信心を受けて、そしてその親教会である、岡山の大きなとても大きな有名な教会で修行して、教師の資格も取らせて頂いて、偶々合楽の修行生の人から合楽の話を聞いて、まあ親先生親も反対を押し切って、ここに修行に来ておるわけなんです。ですから本当に合楽に、もし良いものがあるとするならば、ね。
 その良いものをまあ頂こうというわけなんです。そこで今まで頂いて来ておる信心の上に、その合楽の良かとこだけ頂いて帰ろうと、まあそんな簡単な気持ちじゃなかったでしょうか。ね。一応一月余り修行して一応帰りました。そして今度また愈々、本腰を入れて修行させて頂くと言うてマア来ております。所が昨日一昨日、私が修行生の人達に「合楽で修行させて頂いとって、何が一番辛いか」と、皆に尋ねてみたんです。ね。したら「朝早起きをするとが辛い」と言うとがおるかと思うと。
 岩部先生はこう言う事を申しました。「今まで頂いておる信心をむしり取り、剥ぎ取るようにして、剥がれる事が一番辛い。」と言いました。如何に自分の信心はそのままにして、その上に合楽の良かとこがあるなら、良かとこを身に着けていこうと言うのです。これは誰だって同じです。自分の考え自分の、しかもそれが道徳的であったり常識的な考え方と言った様なものはね、合楽に来たら一遍にご破算にしてしまわな駄目です。ただ道徳心とか常識心だけでは、合楽の信心は本当は体得出来んです。
 言うなら本気で矢張り馬鹿にならな出来んです。ね。ところが合楽の信心にもうそれこそ、魅かれた上にも魅かれて、合楽に来とるのですから、ね、辛いけれどもそれをマアー、ハアーもうとにかく少し過激な、アノー御理解なんか頂くと寝込んでしまう。「今日出て来よらんが、どうしたの」ち言うたら、「今日の御理解があんまりひどかったから(笑い)、ショックで寝とる」ちゅうて言う様な事がある位なんです。ね。
 今まで「格」と信じておった事「格」と思い込んでおった事が、もう合楽に来たら無理やりに、それを剥がなければ先に進まれん。そこにマアー信心の悩みがあるわけです。昨日も私それで申しました。なら同じやっぱり来とります佐田先生なんかの場合は、ね、それこそ今までの、もうこの人は当時やっぱり、マアー最高峰におられた銀座の湯川先生の所で何年間か修行しとります。わざわざ箱崎の教会からあちらに。
 そしてそのうどうも、マア言うならば得るものがなかった。偶々弟が合楽におかげ、あちらの弟さんがおかげを頂いて、ね、何回もちょこちょこ来よりましたけれども、一週間、アノー修行させて頂くと言うて、あの時分からここのここん所に座って、私が奉仕の時間の間もう傍におってから、もうズーッと所謂そのマア勤めて、私の言うておる事を、お取次ぎの模様を一生懸命頂いて、もうとにかく日に日に変わって来るんですね信心が。もう大変こう感動の薄い感じの人でしたけれども。
 もう帰る時にはもうそれこそ、もうそれこそ感涙に咽んで1週間のお礼を言うて帰った。そして帰って来てそういう感動を持って帰っとるもんですから、そのう目に見えるように変わって帰って来たわけです。「合楽の信心ちゃ彼をこの位に変えるというなら、何かがあるに違いない。」と言うて、自分もちょこちょこお参りして来るようになって、まあ、愈々まあ言うならば「本腰を入れて合楽で修行をさして頂きたい」と、こういうわけなんです。親先生が、ここにお願いに見えられました。
 「もう、やむにやまれぬ思いで『ここで修行させて頂きたい。』と言うからどうぞよろしくお願いします。」と言う事なんです。ね。ですから今まで学院で、又は自分の親教会で、又は銀座教会で身に着けて来たことを、いっそうかなぐり捨ててもう一から、合楽の信心を頂こうとしておる模様が、この先生の場合は窺がわれるのです。言うならば私の言う事ならば、それこそ「ハイ」「ハイ」で、受け続けておる様子が良う感じられるです。「先生はそう言いなさるけれども」と言った様な感じは無いわけです。ね。
 そこで岩部先生「先生、あんたの気持ちも、私もよく分かる。だからどうとも思わんけれども一遍、佐田先生達と相談を、あのう相談と言うか話し合いをしてみると良いね。」と、まっ申した事でした。丁度岩部先生がその、お届けに来ました時に、私は「あいよかけよ」という信徒会から出ておる本がありますよね、それを読んでおる所、読んでおる所に、こう言う事が書いてあった。「祈願は遠大にして、道は近くにあり」と言う所を読んだ所でしたから、私はそれを書き下げてやりました。
 私の場合その辺、大変そう言う所を神ながら頂くわけですね。だから合楽にわざわざ、言うなら、万難を排してやって来るのですから、大変な大きな願いを持ってから来とることだけは間違いない。ね。けれどもここに来てみると、余りにも修行が激しいです。激しいというのは別にその、火の行水の行をするのではないけれども、とにかく合楽の信心になってしまうということが激しい。
 身の皮を剥がれるような思いをする。今まで「格」と信じておった事も、これはその時点では本当かも知れんけども、より本当な事なんだから、合楽の信心を頂かなきゃ駄目だという風に頂くもんですから、ね、矢張り身の皮を剥がれる様な思いがする。「祈願は遠大にして」、ね、だから願いというものを余り大きく持っておる、そしてなら合楽の信心を頂いて、自分もまたそういうおかげを頂こうと漠然と考えると、矢張り大変合楽の信心が難しいものになって来る。
 そこで「道は近くにあり」であってね、もうその日その日のね、先の事やら他の事やら考えなさんなと、今日頂いた一日の御教えに本気で取り組んでね、言うならばここで言うならば、私の言う事を「ハイ」「ハイ」。決してあんたが「しきらん」とか「そんなことは出来ん」とか言う様な事を言うはずも無いだろう。ね。結局親先生が言う事に「ハイ」「ハイ」と。ここで信心の稽古するなら、それをなしていく以外には無い。
 その日一日一日が経っていっておるうちにです、その遠大な願いに一歩一歩、ハハーこんなにも近まっていきよる、近づいていきよると言う事を感じれるようになったら、こう有り難くなって来る。日々の信心が有り難くなって、生き生きとして来る。今日私はこの教典を開かせて頂いたら「御」「御ご理解」とある「御」という字の「ぎょ」を取った、「卸し」という字になりますね。「御」という字の横は。
そこを頂いたんです。ですから今日は言うならば、本当に卸売りを願う人、小売の信心から卸売りの信心言うならば、アマからプロと言った様な人達に対する、今日は御理解です。ね。ですから信者だからプロになっていけないと言う事は無いのです。信者でも矢張り、信心が愈々豪奢になり、愈々おかげいわば卸売り的なおかげも頂かねばならん。それにはね、さっき私が頂いた「改まる」と言う事でもです、ね。
 自分の願いとこの「改まる」というが、担や一荷位な丁度良か位でなければいけないと言う事なんですから、これは「日に日に改まりが」「信心は日々の改まりが第一」と仰る。日々改まって意苦こと。いや改まろうと思わんでも、日々の御理解を基にして、言うなら、ね、「道は近くにある」という「自分の足元にある」という生き方を身に着けていっておるうちに、前の方のスルメが段々と大きくなっていくんです。
 そして担や一荷と言う様なおかげを頂いた時が、本当に卸売りもの、言うなら店をはっても良いようなおかげが受けられる時なんです。ね。ですから今日は玄人に対する御理解です。ね。また今日の御理解を頂いて下さった方には、玄人としてのおかげの頂ける内容を持った人達ばっかりだと、だから思いますね。だからと言うて、なら玄人の信心が難しいかと言うとそうではない。「遠大な所」に願いをおいておる。
 だからその「遠大な願い」のために「あぁじゃなかろうか。こうじゃなかろうか」と言うて、心を使うとそれこそ、池上(?)先生じゃないけれども、心がきつうなって来る。思うただけでも。「こんな事で良いだろうか」と思う。だからそういう思いはかなぐり捨てておいて、日々の御教えに本気で取り組んでいくという生き方をさせて頂いておるうちにです、親の言う事を聞く事にもなり、ね、「この子になら何をやっても、もう大事ない」と言う様に、親の信用も深くなって来る。
 「親の言う事を聞かん子が一番つまらん」、いや聞かんからというて責められん。聞かんからというて、それこそ千年かかっても万年かかってでも、本当な事にしていこう。愈々「丸うせずにはおかん」という天地の働きはありますけれども、私どもはここに思いを、そこにおいてです、ね、「親の言う事に本当に素直になろう」と。そして言うなら私が頂いておるおかげというのは、ね、私の「ハイ」という二字の言葉の中から、この家蔵、財産が生まれたんだと言えれる程しのおかげを頂かなきゃいけません。
 そこにはね、教えを「先生はあぁ言いなさるけど、私はこう思う」と言った様なものを、かなぐり捨てなければならん所が難しいと言うなら難しい。場合によっては、それが自分の何十年間かけて来た教養であったり、学問であったり、ね、竹内先生が言われるように「私は東大出です。親先生は小学校すら出てござらん」けれども、小学校すら出てござらん親先生の前に出たら、大学も東大出も無い、ただそこに「ハイ」と言う、ね、以外にはないんだというのです。ね。
 そこにね私は思いをおいて、ね、親の言う事をだからね、どんな詰らん事でもです、もう「聞いて貰う」と言う事はこんな嬉しい事なんです。親の言う事は、ね、私はこの頃若先生に、この頃わざわざここにいろんな沢山の書類が来ますけれども、これは若先生に見せとかなきゃいけん、また後で相談せんならん事もあると言う様な事ん時、全然会う暇が無いわけです。朝の御祈念終わったら、ちょっと部屋に入るでしょう。だからもう「ちょっと呼んできてくれ」とまでは中々言えません。
 それで何かこう擦れ会わんで済むごと、4時の御祈念に、私が4時半に下がるから、「ちょうど4時半頃、30分位でも良いからお広前に出て来てくれないか」と、私が頼んだんです。そしたら明くる日から、やっぱりあのう黒衣を着けてから出て来とります。と言うて、ならそげんに度々に、そのう言う事は無いのだけれども、そしてやっぱそのう30分間前だけど出て来て言う事を聞きよると言う事がね、私にとって大変嬉しい事なんです。たったそれだけのことで。ね。
 「もうこの人ばっかりは、いくら言うたっちゃ言う事聞かん。」と。もう言おうごつも無かごつなって来る。ね。もの一つでん頼むごつなか。尻が重かったら重い人やらは。ね。やっぱり尻軽々ともう「ハイ」ち言うて、言う人の上にはやっぱり。ね。そして決して、なら親が頼むと言う事がですね、如何にも損のごつあるけれども、「こんだ何か良かもんがあっ時には、あれやろ」ち言うごたる心はちゃんとあるわけです。ね。だから本当に親の言うことを聞かん子が一番つまらん。
 如何に教祖金光大神様、天地金乃神様から「おかげを受けておる事を話にして聞かすのぞ」と言うても、まあ疑ごうて聞かんというわけではなかろうけれども、それを右左にする様な事では愈々詰らん。もう親孝行というのは大変難しい。もうちょっとした事で出来ると言う事。そこに私は「子供を持って合点せよ」とこう言う。ね。「親の言う事を聞かん子が一番つまらん」。ね。だからつまらん子ではなくて、本当に良う言う事を聞いてくれるという子にならせて頂くと言う事が、私は取りも直さず、ね。
 「遠大な」言うなら「願い祈願」というものはかけておる、持ってもおるけれども、ね、言うならそれは日々の言うなら「近い所に」ね「道は近くにある」と言う事になるのじゃないでしょうか。ね。そういう蓄積が何でもないような、親の言う事を聞いていくその蓄積が、私はねまっ今日の御理解で言うと、卸売りが出来るような元手が出来る事じゃなかろうか。ね。折角頂くのですから、目先目先の小さい小売的なおかげから、本当に限りない無尽蔵のおかげに繋がる様なおかげの頂けれる信心を身に着けたいですね。
   どうぞ